
プロフィール
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日本一の難病請負人 KIK療法の開発者 (財) 日本東洋医学財団 理事長 難病克服協会 会長 鍼灸・指圧師 (厚生労働大臣 国家資格) NPO法人 WINC 理事 (株) テックイドー 監査役 (有) 東海理学センター 顧問 (社) 全日本鍼灸マッサージ師会 会員 |
![]() 特許庁商標登録証 登録第5293636号 難病請負人(TM) 知的所有権取得 KIK療法(TM) |
”必活仕事人”中村司のプロモビデオです |
プロモーションビデオ撮影の様子 |

新聞・雑誌等の掲載実績
<中村司×日本東洋医学財団 公的機関での講演>
第26回岐阜県難病連パーキンソン病友の会 総会での基調講演
難病連パーキンソン病友の会 会報に寄稿
静岡県立大学・京町公民館での講演会
県委託事業 難病連ふれあい教室に指定
<出演・取材協力>
フジテレビ 日本テレビ TBS テレビ朝日 FMわっち
<掲載実績>
中日新聞 岐阜新聞 広報ぎふ(発行/岐阜市長公室広報室)
京町の福祉(発行/社会福祉協議会京町支部) グラフ日本
Hot Pepper 咲楽 プラザ 月刊カーサ ブルータス
<その他協力>
三重大学 市民病院 テレビ朝日「ニュースステーション」
フジテレビ 嵐の番組
中村司 ~ 難病請負人への道のり ~
こんにちは。 難病請負人 中村司です。
私が治療家として「最初に取り組んだ難病治療」は関節リウマチでした。
それは、どうしても関節リウマチをなくさなければならない必要が私自身と家族にあったからに他なりません。
~ 寝たきりの患者の家族として過ごした少年時代 ~
中村司の少年時代。
同居していた祖母(父方の)は寝たきりの状態でした。
原因はリウマチで、あちこちの関節が痛いから。
痛みと筋力の低下によって足が細くなって全く歩けません。立ち上がることも不可能でした。
介護保険なんてない時代ですから、家族全員で介護をします。
トイレは道具を手差しし、入浴は、家族全員で毛布に乗せて風呂場まで引いていきました。
両親が共働きだったので、私はおばあちゃんといつも一緒に暮らしていました。
「関節の痛みが楽になる、リウマチが良くなった人がいる」とのことで、いろんな薬や漢方薬を飲んでいたことを思い出します。
中村司が生まれる10年前から祖母は寝たきりだったため、祖母が立った姿を見たことは一度もありません。
当時の夢は「医者になり、おばあちゃんを歩かせること」でした。
「寝たきりになりたくない!! 家族の世話になりたくない!!」と患者さんはよく言いますが、祖母は亡くなるまで27年寝たきりでした。
たぶん3年でも、いや、1年でもかなり大変なことです。
「27年間に及ぶ壮絶な寝たきり」の大半を家族として経験する中、現代医療の無力さ、非力さは中村司の骨の髄まで染みこみました。
「私たちはそばで見ていることしかできない」という重い現実、ジレンマをずっと背負ってきたのです。
~ 患者側の立場として模索する日々 ~
中村司はあまりに当事者意識が強いため、
「リウマチを治せない医学はリウマチ患者にとって全く価値が無い。
世界中を周ってでも、関節を良くする方法を探さねばならない」と考えるようになりました。
さらに後年、もう一人の母方の祖母までも数十年のリウマチ患者として関節の痛みに苦しめられることになります。
「これでもか」という感じですが、こちらも20年以上。
リウマチは家族に遺伝する可能性があると言われています。
確かに伯母は膠原病、いとこも同様の病気になっています。
つまり、中村司は関節の痛み・リウマチ界のサラブレッドなんですね。嬉しくないけれど血統書つきです。 苦笑
このままほおっておいたら、インフルエンザみたく親戚、家族中、関節の痛みが蔓延する危機を迎えていました。
お尻に火が付いたら誰でも真剣になります。
危機意識を持って、関節を改善・再生する方法を模索し始めたのでした。
~ 人生を変えた東洋医学との出会い ~
そんな折、人生を変える出来事に遭遇します。
車に追突される事故に遭い、ムチウチになって患者として通院することになりました。
ところが、いくら病院に通っても高額な検査をするばかりで、治りません。
将来を考えると、不安がつのるばかりです。
痛い、気持ち悪いという状況の中、つらい毎日を過ごしていました。
そんな時、東洋医学の治療によって絶望の淵から救われたのが、私の転機となりました。
最悪のフラフラ状態だったのが、たった1回、約30分の治療でルンルン状態まで良くなっていたのです。
今も鮮明に憶えているほど、大きな奇跡の起こった瞬間でした。
それ以来、日本一の治療家や高名なドクターの教えを受けつつ「東洋医学はものすごい力を持っている!!効果は絶大!!」と確信し、その不思議な魅力にどんどん惹き込まれていきます。
~ 現代医学の限界を痛感した病院勤務時代 ~
そうして、とある西洋医学の病院に、東洋医学での部門責任者として勤務することになります。
そこは難病治療で非常に有名な病院でした。
しかし、そこで学んだのは、現代医学での治療の限界と、名医とされるドクターですら「完治へ導くことは不可能である」という重い現実でした。
「病院では治せない・・・・」
それならば、自分のこの手でなんとかしたい!
自分なら、祖母と同じように苦しんでいる難病の人たちを、せめて今よりは楽にしてあげることができる!
失意の中、いつしか中村司の心にはこんな思いが沸き起こっていました。
こうして中村司は勤めていた病院を後にし、独自の道を突き進むことになったのです。
~ 時は巡り、患者の家族から難病請負人に ~
病院を辞めた後の中村司は、単なる治療家を目指すつもりはありませんでした。
どうせやるなら、難病治療。
あえて困難な道を選んだ背景には、難病といわれる関節リウマチで苦しんでいた祖母を誰も救ってあげれなかった、悔しさ、無念さがありました。
それが大きな原動力となったのでしょう。
血のにじむような努力をしました。
膨大なお金と時間と労力を費やしました。
どこかに素晴らしい治療家がいると聞きつけては、その門を叩きました。
そして、努力が実って、いつしか独自の治療理論を確立。
難病治療で一定の成果をあげることができるまでになりました。
難病請負人 中村司の誕生です。
中村司は現在も、難病患者さんたちを救うべく、日々進化しています。
いつか、皆さんが苦しみから解放されることを願って・・・。
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【(株)ツイン・ソウルがある日本東洋医学財団ビルとチーム中村司】











